マキタ110年の歴史|モーター修理の町工場が「世界の電動工具」になるまでの全軌跡
はじめに|あの青い工具はどこから来たのか
現場の腰袋に、軽トラの荷台に、金物屋のショーケースに——青いボディのマキタ工具を見かけない日はない。
国内電動工具シェア約60%。世界シェア約25%で世界2位。160カ国以上で販売される日本を代表するグローバルブランド。それがマキタだ。
でも、これだけ「当たり前」に存在するブランドの歴史を、きちんと知っている人は案外少ない。
マキタの出発点は、1915年の名古屋にあったわずか4人のモーター修理屋だ。創業者は21歳の青年だった。そこから110年かけて、どうやって「世界のマキタ」になったのか。
この記事では、マキタの110年の歴史を時代ごとに追いながら、そのブランドの強さの源泉を探っていく。
第1章|大正4年・4人の町工場から始まった(1915〜1938年)
21歳の青年が動かした歯車
1915年3月21日、愛知県名古屋市に牧田電機製作所は産声を上げた。創業者の牧田茂三郎は当時21歳。名古屋の富裕な材木商の子として生まれながら、電気技術への強い興味を持ち、商業学校から電気学校へと進路を変えた異色の青年だった。
名古屋電灯(現・中部電力)の技術者として働きながら、いつか独立したいという夢を温めていた茂三郎は、ある日、東京の明治電気の名古屋分工場が閉鎖されるという情報を耳にする。設備の買い取り契約を素早く結び、同時に明治電気に工員の派遣を要請。このとき指名されたのが、17歳の後藤十次郎だった。後に2代目社長として会社の礎を築くことになる人物との出会いが、ここにあった。
創業当時は、21歳の牧田茂三郎を工場主に、17歳の後藤十次郎、ベテランの職工、小学校を出たばかりの少年というわずか4人の町工場だった。
電灯器具、モーター、変圧器の販売と修理。それが最初の仕事だった。
なぜ電機業界に参入できたのか
当時の電機業界はまだ未成熟だった。配電インフラが地方都市まで届き始めた大正初期は、電灯器具やモーターを売り、壊れたら直すという商売に、大手が入り込んでいない隙間が残されていた。パナソニック(松下電気器具製作所)の創業が1918年であることを考えると、マキタの参入はそれより3年早かった。
小さな町工場でも、「売って、直す」という一体の商いが成立した時代だった。この「売ったら責任を持ってメンテナンスする」という姿勢は、後のマキタのアフターサービス文化の原点になっていく。
初の海外輸出と法人化
1935年(昭和10年)9月、ソ連へ発電機・モーターを初輸出した。国内だけでなく海外にも目を向けた最初の一歩だ。ソ連の検査は厳重を極めたが、マキタの製品は見事にクリアした。この成功体験が、後のグローバル展開への自信につながっていく。
1938年(昭和13年)12月、法人化して株式会社牧田電機製作所となった。当時の資本金は18万円、総株式数は3,600株、従業員は94人。創業から23年で、4人の町工場は100人近い組織へと成長していた。
第2章|存亡の危機と「電気カンナ」という賭け(1938〜1960年代)
戦争・疎開・廃墟からの再起
法人化から間もなく、第二次世界大戦が始まった。1945年(昭和20年)4月、工場疎開を兼ねて安城市住吉町の現在地に移転した。これが現在のマキタ本社の場所だ。戦争で工場は壊滅的な打撃を受けたが、安城への移転でかろうじて事業を継続できた。
終戦後の復興期、朝鮮戦争の特需で一時的に業績が回復したものの、朝鮮戦争後の不況で再び営業不振に陥る。このとき、ある人物が会社の運命を変える決断を下した。
後藤十次郎の「独自製品開発」という決断
1955年(昭和30年)4月、後藤十次郎が社長に就任した。創業時にわずか17歳でモーター修理の職人として加わった、あの後藤十次郎だ。
当時のマキタの主力製品はモーターだった。しかしモーターは独立した製品ではない。工作機械や織機の「動力源」としての部品に過ぎず、取引先の業績に需要が左右される構造的な弱さがあった。
十次郎はこの問題を根本から解決するために「独自製品の開発」という方針を打ち出す。モーター技術を応用した、マキタ独自のエンドプロダクトを作る——その答えが「電動工具」だった。
国産初の電気カンナ誕生
1958年(昭和33年)1月、日本で初めて電気カンナを製造した。これがマキタの歴史における最大の転換点だ。
電気カンナとは、それまで大工が手作業で行っていた木材削りを電動化した工具だ。当時の建築現場では、熟練大工が手カンナで木材を削る作業が当たり前だった。そこにモーター技術を持つマキタが「電動で削れる」という革命的な提案をした。
発売翌年の1959年、東海地方を中心に壊滅的な被害をもたらした伊勢湾台風が発生する。復興需要で建築現場の人手が圧倒的に不足した。そこで電気カンナは「少ない人手で早く仕上げられる道具」として一気に普及した。悲しい出来事がマキタの電動工具事業を軌道に乗せた、歴史の皮肉な一面だ。
この成功を受けて、マキタはモーター販売修理から電動工具製造販売へと事業の軸足を完全に移していく。
「マキタ」という名前の誕生
商号を株式会社マキタ電機製作所に変更した。「牧田」から「マキタ」へ。世界市場への進出に備えて、親しみやすいカタカナのマキタとした。後に「株式会社マキタ」へとさらに変更され、現在の社名になった。
漢字の「牧田」ではなく、カタカナの「マキタ」にした理由は明確だ。世界で通用するブランドにするために、外国人でも発音しやすい表記を選んだのだ。この決断が、後の「MAKITA」というグローバルブランドの礎となる。
第3章|アメリカという難所と「世界のマキタ」への飛躍(1970〜1990年代)
岡崎工場の完成と大量生産体制
1970年、愛知県岡崎市に近代的な量産設備を備えた岡崎工場が完成した。現在も主力工場として稼働するこの施設の完成が、マキタの生産体制を根本から変えた。熟練職人の手仕事から機械による量産体制へ。品質を保ちながら供給量を大幅に拡大できるようになった。
初のアメリカ進出と苦闘
1970年には当社初の海外現地法人としてマキタ・アメリカを設立した。電動工具の「本場」アメリカへの挑戦だった。
しかしアメリカは甘くなかった。現地の老舗メーカーたちがひしめく激戦区で、日本から来た新参者のマキタ製品はなかなか受け入れてもらえなかった。さらに1973年の変動相場制導入で急激な円高が進み、マキタ・アメリカの経営状況は悪化していく。
それでも「不況時こそ積極経営」という方針のもと、シカゴやロサンゼルスなど主要都市に営業・サービス拠点を構え、顧客要望にきめ細かく応えていった。
転機になったのは、トヨタやソニーなど日本製品全体の品質が世界で注目され始めたこと。「日本製は信頼できる」という評価の波に乗り、マキタ製品も少しずつ北米市場に浸透していった。コスト競争力の高さと、壊れたらすぐ修理するアフターサービスの徹底。この2つがアメリカ市場での評価を確立した。
「修理3日体制」というブランド哲学
マキタが世界で信頼を築いた最大の理由の一つが「修理3日体制」だ。世界中どこでも、マキタの工具は3日以内に修理して返す——これは創業時の「売って直す」という原点から続く、マキタのDNAだ。
プロの職人にとって、工具が壊れてしばらく手元に戻らないことは死活問題だ。「マキタを選べば、壊れても3日で戻ってくる」という安心感が、現場職人の間にマキタへの絶対的な信頼を生んだ。
欧州・オーストラリアへの展開
アメリカでの成功を足がかりに、マキタはフランス・イギリス・オーストラリアにも相次いで現地法人を設立。各国の市場特性に合わせた戦略をきめ細かく実行し、「世界のマキタ」としての地位を固めていった。
バブル崩壊と「Strong Company」戦略
1990年のバブル経済崩壊後、平成不況の波はマキタにも押し寄せた。この局面で当時の後藤昌彦社長(現名誉会長)が打ち出したのが「Strong Company」という長期目標だ。外部環境に左右されない強い企業を目指す——この方針のもと、為替リスク回避のため現地生産を拡大し、1991年にイギリス、1995年に中国でも生産を開始した。輸出企業から真のグローバル製造企業へと転換したのだ。
第4章|リチウムイオン革命が世界を変えた(2000〜2015年)
コードレス時代の幕開け
現在のマキタを語る上で、絶対に外せないのが「リチウムイオンバッテリー」への転換だ。
リチウムイオンバッテリシリーズは2005年2月、インパクトドライバを皮切りに販売を開始した。当時の充電式工具の主流はニカド電池だった。ニカド電池は重く、メモリー効果(継ぎ足し充電で容量が減る現象)という致命的な弱点を持っていた。
マキタが選んだリチウムイオン電池は、軽量・高容量・メモリー効果なしという三拍子揃った次世代技術だった。しかし当時はまだコストが高く、「ニカドで十分」という声も多かった。
それでもマキタは先行投資を続け、ラインナップを拡充した。発売開始時は1つだったモデル数も毎年数多くのモデルを追加し、発売から8年が経過した時点で190モデルに迫る大ラインナップとなった。
18Vプラットフォームという「エコシステム」の発明
マキタがリチウムイオン時代に仕掛けた最大の戦略が「18Vプラットフォーム」だ。
「一つのバッテリーで複数の工具が使える」——このコンセプトは、一見シンプルだが革命的だった。インパクトドライバーで使っているバッテリーを、丸ノコにも、ドリルにも、掃除機にも、ライトにも使い回せる。
現場では複数の工具を使い分けることが当たり前だ。バッテリーが共用できれば、充電器は一つで済み、予備バッテリーも最小限にできる。コスト削減だけでなく、工具管理の手間も減る。
一度マキタのバッテリーを揃えた職人は、次の工具もマキタを選ぶようになる。これが「バッテリーエコシステム」と呼ばれる強力なロックイン効果だ。現在、マキタの18V対応工具は300種類以上に達している。
創業100周年と40Vmaxの時代へ
2015年(平成27年)3月、創業100周年を迎えた。その記念としてゴールドカラーシリーズを発売した。100年という節目を祝うだけでなく、次の100年への意思表示でもあった。
この頃から、マキタはさらに上位の電圧域「40Vmax」の開発を本格化させる。18Vでは対応しきれない大型工具・重作業への需要に応えるため、40Vという新たなプラットフォームを構築。丸ノコ・ハンマードリル・インパクトドライバーなど、18Vでは力不足だった領域に充電式工具を投入し始めた。
第5章|現在のマキタ——世界2位の実力と次の挑戦(2015〜現在)
世界55カ国・国内60%シェアの現在地
現在のマキタは、こんな数字を持つ企業だ。
- 国内電動工具シェア:約60%
- 世界シェア:約25%(世界2位)
- 販売国数:160カ国以上
- 直営営業拠点:世界50カ国以上
- 国内支店:19カ所、営業所:127カ所
- 売上高に占める海外比率:約82%
「日本のメーカー」というイメージが強いが、実は売上の8割以上が海外だ。アメリカ・ヨーロッパ・オーストラリア・東南アジア——世界中の現場でマキタの青い工具が使われている。
エンジン工具からの完全撤退という決断
2022年(令和4年)3月、エンジン機器の生産から撤退した。チェーンソーや草刈機などのエンジン式工具から完全に手を引き、充電式に経営資源を集中するという決断だ。
これは単なる製品整理ではない。「電動工具の未来はコードレス・充電式にある」という明確な方向性の宣言だ。エンジンから充電式への転換は、環境規制の強化やユーザーの利便性向上という時代の流れとも一致している。
現在進行形の挑戦:40Vmax・充電式スクリード・新型フラッグシップ
現在のマキタが注力しているのは40Vmaxプラットフォームの拡充だ。インパクトドライバーのTD002Gに続き、丸ノコ・ハンマードリル・レシプロソーなど、あらゆるカテゴリで40V対応機種を揃えてきた。
そして2026年4月には、マキタ初の充電式スクリード「VL001G」を発売。コンクリートならし作業という、これまで電動工具が入り込めなかった領域への挑戦だ。
さらに40Vmaxインパクトドライバーの次期フラッグシップとして「TD005G」が近日発売予定。ヘッド長100mm・TD002G比100g軽量化・高出力密度モーター初搭載・トガリビスモード・カムアウト低減機能という、過去最大規模の機能進化を予告している。
第6章|マキタが「選ばれ続ける理由」——ブランドの強さの本質
110年の歴史を振り返ると、マキタが現場職人から選ばれ続ける理由がくっきりと見えてくる。
①「売って直す」という創業時からのDNA
創業時のモーター修理屋から始まった「売ったら責任を持ってメンテナンスする」という姿勢は、現在の「修理3日体制」として受け継がれている。プロの職人にとって工具は商売道具だ。壊れたときに素早く対応してもらえるという信頼が、長年のロイヤルティを生んでいる。
②プロの現場に寄り添う製品開発
電気カンナが伊勢湾台風の復興現場で活躍したように、マキタの製品は常に「現場の困りごとを解決する」という視点で作られてきた。スペックの数字を競うのではなく、現場で実際に役立つかどうかを最優先にする開発思想が、プロユーザーからの支持につながっている。
③バッテリーエコシステムによるロイヤルティ
18Vプラットフォームに代表されるバッテリー共用設計は、ユーザーが「マキタのエコシステム」に入ることを促す。一度複数のマキタ工具を揃えると、バッテリー互換性という強力な引力が働き、次の工具選びでも自然とマキタを選ぶ。このエコシステムの強さは、数十年かけて築いてきた資産だ。
④愚直なグローバル展開と現地化戦略
アメリカ進出時の苦闘を経て確立した「現地のニーズに合わせてきめ細かく対応する」という戦略は、現在も160カ国での展開に生きている。単に輸出するだけでなく、現地生産・現地雇用・現地サービス網を構築することで、「外来品」ではなく「地元のツールブランド」として根付かせてきた。
⑤変化への決断力
電動工具への「商売替え」、リチウムイオンへの先行投資、エンジン工具からの完全撤退、40Vmaxへの注力——マキタの歴史は「決断の歴史」でもある。時代の流れを読み、既存事業を手放してでも次に賭けるという決断力が、110年を生き抜いてきた原動力だ。
おわりに|「青い工具」が運ぶもの
1915年、名古屋の小さな工場で21歳の牧田茂三郎が起業してから110年。4人の町工場は、今や世界160カ国に展開するグローバルブランドになった。
現場の腰袋に差さった青いインパクトドライバーは、そんな110年の歴史を背負っている。「修理3日体制」という創業時からの精神も、電気カンナで現場を変えた革新者の血も、リチウムイオン時代をいち早く切り拓いた決断力も、全部あの青いボディの中に詰まっている。
次の電動工具を選ぶとき、マキタを手に取りながら、この110年の物語を少しだけ思い出してもらえたら嬉しい。
マキタ年表|創業から現在まで
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1915年3月 | 牧田茂三郎が「牧田電機製作所」を名古屋に創業(従業員4名) |
| 1935年 | ソ連へ発電機・モーターを初輸出 |
| 1938年 | 法人化・株式会社牧田電機製作所設立 |
| 1945年 | 工場疎開・愛知県安城市(現本社所在地)に移転 |
| 1955年 | 後藤十次郎が2代目社長に就任 |
| 1958年 | 国産初の電気カンナを発売 |
| 1959年 | 電動工具の輸出開始・伊勢湾台風復興需要で販売急拡大 |
| 1962年 | 商号を「マキタ電機製作所」に変更(カタカナ表記へ) |
| 1970年 | 岡崎工場完成・マキタ・アメリカ設立(初の海外現地法人) |
| 1970年代 | フランス・イギリス・オーストラリアに現地法人設立 |
| 1990年代 | バブル崩壊後「Strong Company」戦略・現地生産拡大 |
| 1991年 | イギリスで生産開始 |
| 1995年 | 中国で生産開始 |
| 2005年 | リチウムイオンバッテリシリーズ(18V)販売開始 |
| 2015年 | 創業100周年・ゴールドカラーシリーズ発売 |
| 2017年 | 後藤宗利が社長に就任 |
| 2019年 | 尼寺空圧工業を完全子会社化 |
| 2022年 | エンジン機器の生産から完全撤退 |
| 2023年 | 18Vフラッグシップ「TD173D」(全周リングLED)発売 |
| 2026年4月 | 充電式スクリード「VL001G」発売(マキタ初) |
| 2026年(予定) | 40Vmaxフラッグシップ「TD005G」近日発売予定 |
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